月 | 日 | 概要 | ![]() |
4 | 25 | 成田→北京 | |
26 | 故宮〜北京→ウルムチ | ||
27 | ウルムチ市内〜トルファン | ||
28 | トルファン近郊〜ウルムチ〜寝台列車〜 | ||
29 | 〜柳園〜鳴沙山〜敦煌 | ||
30 | 莫高窟〜陽関〜敦煌 | ||
5 | 1 | 敦煌→西安市内 | |
2 | 兵馬俑〜西安→北京 | ||
3 | 北京→成田 |
成田を夕方出発して、北京到着は夜。ウルムチへの飛行機は一日明けての15時頃。半日ヒマなので、北京市内観光となる。中国は初めてなので、万里の長城とかも見ていないのだが、目的が敦煌、トルファンなので、仕方がない。故宮は大きいし、細かい。右半分を、しかも直線に通りすぎただけだが、さながら東照宮がいっぱい状態である。広過ぎて細かい部分に目が届かないだけとは思えなかった。 | |
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ウルムチはモンゴルを通り越した向こう側なので、成田〜北京より若干遠い。その飛行機でデザートに渡された梨。ナイフはくれないのでかじるしかない。それに環球大酒店という今夜の宿。 | |
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辺境の地を目指したつもりだったが、かなりの大都会だった。ビルが立ち並び、車が行き交っていた。現地ガイドと運転手。このバスの色とか、ガイドのスカートとか、これが観光用の特異な光景ではない。それに次の日の寝台列車に時間があったので寄った隕鉄前での記念撮影。 | |
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新彊ウイグル自治区博物館。内部は撮影禁止なので写真はない。それに、ここで一番有名な「楼蘭の美女」がいない。もっとも、いくら美女でもミイラだかんね。博物館を出たところに、かなり目立っている人たちがいたので写真を撮らせてもらった。 | |
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下は博物館前の道路で、ここは残念ながら田舎である。つまり車の方が偉い。人は車の邪魔にならないように道路を通りぬけなければならず、走り抜ければぶつからない程度にしかスピードを緩めない。最後は、その道路の向こう側のバザール。 | |
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ウルムチから高速道路を2時間ちょっとでトルファンに着く。天山の北には緑も見えるが、南側は砂漠になりきっていない沙漠が続き、しばらくして緑が見えかかったころに町の少し手前にある交河故城に着く。川の中州に出来ており2〜30mくらい切り立っているので、城としては適地だったようだ。ジンギスカンに攻め落とされたとのこと。それに城らしさが一番残っているところ。 | |
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左はベゼクリク千仏堂。小さな莫高窟という感じで、彫刻ではなく仏画がほとんど。千仏というくらいに小さな仏様が天井いっぱいに描いてあるのだが、状況はよくない。イスラムの泥塗りとか探検隊の削り取りとか、なかでも文革が一番酷かったらしい。右はアスターナ古墳郡のうちのひとつ。ちょっと裕福な人のお墓と言う感じで、中は大きなものでも6畳間くらいだろうか。ミイラにしたのではなく、ミイラになってしまう地域である。 | |
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三蔵法師が立ち寄ったという高昌故城。ここは広いのだが、遺跡の入口から遺跡らしいところまで1km程あり、歩きとさほど違いがないロバタクシーを利用した。一人20元(300円)は高い。地元の修学旅行らしい集団がいたので、勝手に記念撮影させていただいた。 | |
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ホテルの服務員と。このホテルはエレベーターもなければ鍵もない。いや、鍵はあるのだが渡されない。この服務員が階段脇の一坪くらいの事務室に常駐し、部屋に入るときは頼んで開けてもらう。それにトルファン賓館での民族舞踊ショー。 | |
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当初、トルファン〜柳園までの予定だった夜行寝台が、当局の指導によりウルムチからになる。トルファンは途中駅なので、ウルムチまで戻る必要もないのだが、これで全体行程がスムーズにいってしまうあたり、怪しい指導である。寝台列車などには日本でも滅多に乗らないので面白かった。たまたま集団結婚式列車になっていて、夜中12時頃に着飾った花嫁花婿達が食堂車に向かって行ったので、拍手で見送った。列車はゆっくりなので揺れも少なく、まあ快適。チーム最年少の我々は最上段である。それに敦煌への下車駅、柳園の駅前。 | |
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柳園から敦煌への道。道路の中央に立っているが、前からも後ろからも車は来ない。この後ろで両側遮断の道路工事中だった。約10分で開通。それに敦煌のバザール。敦煌はウルムチとトルファンのちょうど中間くらいの大きさだろうか。5〜6階建てのビルもあり車も多い。 | |
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夕食の後、19時頃出発する。両側売店の参道を抜けてでかい門の先にある。一人30元の駱駝に乗って約1kmを進んだ先に月牙泉がある。涸れたことのない泉が涸れかかっていた。駱駝はかなり埃っぽい。それにホテルの玄関でベルガールと。 | |
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翌日は朝から莫高窟。ここも窟内は写真撮影禁止なので、写真は外から撮った1枚のみ。先生と呼ばれるガイドを先頭に、それぞれの窟の鍵を開け、中を見学して、終わると鍵を閉めてしまう。つまり、こっちがすいているからのんびり見よう、といった見学はできない。また、ここは有料で○○ドルかかるがどうする?とか、気になる点も多い。それに陽関碑。敦煌から陽関までバスで1時間かかるが、その間、水の気配がしない。沙漠のどこでも通れるのに、なぜここが関なのか不思議だったが、やっと分かった。ここで水を補給しないと先に行けない。 | |
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人口1千万ほどの西安だが、古都、城砦都市のせいか近代的な建物が少ないような気がする。ただ、面的な広がりや、城壁のように大きいものがあっけなくあるので目立たないだけかも知れない。右は西門の城壁の隙間から外を眺めたところ。高さ12m、幅15m、長さ12kmで旧市街を囲っている。家なら3階から4階にあたるだろうか、かなりでかい。それに西門上にあった兵馬俑の人形。 | |
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大手旅行社トワイライトツアーで西門からの入場なるもの。既に中にいて入場するため、一旦出てまた入ってくる。我々の時は門が開いて、門番が整列するだけだったが、運悪く、すぐにもっとお金を出したチームがやってきて、10倍くらいの出演者が出た。羽衣スタイルの女性達が踊り、記念品や証明書などを配っていた。たぶん西安がメインのお客さまたちでしょう。 | |
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兵馬俑坑博物館、発掘現場の覆いなので、建物は背の低い屋内サッカー場と言えば近いだろうか、兵馬俑も整列しているのは手前だけ、後方発掘中のものはぐちゃぐちゃに転がり、折り重なっている。右は、この兵馬俑の発見者おじさんとの記念撮影。 | |
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今回主催の大手旅行社企画の屋台村にいた日本語通訳。屋台村は焼きそば、ラーメン、餅、シシカバブとか、各種飲み物を偽古銭(おもちゃ銭)何枚という感じで飲み食いする。それに兵馬俑から20分ほどのところにあったレストランの食事。食事は全部こんな感じだった。味も良い。ただ、添乗員がいちいちメモを取っていたので、日本人向けになっているのかも知れない。おしまい。 | |
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