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1973

九州
概要
9 23 東京〜八幡:寝台特急
24 八幡〜別府、地獄めぐり観光バス:国民宿舎しだか荘
25 急行グリーンで宮崎へ:パークサイドホテル
26 ストの為バスで都城〜志布志湾:国民宿舎ダグリ荘
27 鹿児島:東洋観光ホテル
28 船で屋久島へ:国民宿舎屋久島温泉
29 平内温泉、宮之浦へ:田代館
30 船で鹿児島へ:東洋観光ホテル
10 1 鹿児島〜羽田
 2021年版:この九州旅行は、日程と写真12枚しかなかったが、つい先日、日記が出てきたので、その日記をもとに、今年版として作ってみることにした。右下の絵は、その日記、発電所にいた時の不要になった図面の裏を使っている。時刻とお金の記載が多いが、感想なども書いてある。
 寝台特急あさかぜ1号。適当に手配したせいか、私は上段、中段に岩国大の女子大生、下段と向かい側にはおばさんがいた。女子大生は28年6月生まれの20歳。同じ年齢だが学年はひとつ下。あとでコーヒーでもという話もあったが、下段のおばさん達との話に花が咲いて、そのままに寝ることになる。寝台車の乗り心地は、それほど悪くはないものの眠れなくて食堂まで行った。夕食を食べてないけど、お腹も空いてない。
 23時になるが、眠れないので、またちょっと書いている。もともと字が下手な所為だが、こんな電車の中でも、いつもと同じように書ける。明日はどうしよう、今だに決まってない。電車に乗っているのが嫌になったら、降りてどこかに行こうとか、ちょっと恰好のいいことを言ってみる。門司あたりで降りて、臼杵に行くだろう。臼杵から阿蘇、それからはまだ分からぬ。大宰府に行けばと、あの女子大生は言っていたが、あまり行きたいとは思わない。ちょっと腹が減ってきた。眠くはないが寝るふりをしよう。コーヒー飲んで損した。
 女子大生、おばさん達どころか、あさかぜの外観、内装などの写真は全くない。これは、当時のものらしいのを借用している。おばさん達のことはほとんど記憶にないが、女子大生は覚えている。ただ、岩国大・英語科を勝手に国立の英語科と勘違いして引いてしまった。この2年ほど前にできた岩国短大、2002年に英語科は廃止。現在、幼児教育科のみとなっている。
 電車の中で朝。姫路城が通り過ぎた。徳山で女子大生が下車、「お気をつけて」「お元気で」でおしまい。それからおばさん方との話が始まる。なにせ、こっちも暇、向こうも暇。10時近くなって門司。もう電車に乗っているのもつらくなり小倉で下車、別府に向かう。小倉で駅そばを食べ、フィルムを買って11時06分発の別府行きに乗る。九州内国鉄は乗り放題。
 別府という町は明るくて賑やかでいい街。入った喫茶店が良かったからかも知れない。ただ、これも、そのおばさんたちの勧めなのだが、地獄巡りなんてやったのはまずかった。私みたいな男のひとり旅で定期観光バスになんて乗ったのはひとりだけのようだった。その地獄も、初めの2つはなんとか見られたが、あとはただのつけたし。見せるものがないから動物でも連れてきた。そんな感じで動物園のようだった。熊が首を何十回となく振っているのをながめて帰ってきた。動物地獄園とでもすればピッタリ。それに入口出口は売店になっていて、狭く、そこを通らないと出られない。観光客へのサービスもあるとは言え、だんだんイラダチさえ覚える。
 国民宿舎しだかで。今時、1500円で泊まれるとはうれしい。貧乏旅行もいいものだ。相部屋だと言っていたが、予約をさせないための嫌がらせ。まだ誰も来ない。来ても構わないが、来ない方が得をしたような気がする。かなり疲れているようだ。ふらふらする。喫茶店に行ってコーヒーでも飲もうとは思っている。左下は昭和50年頃の志高湖。
  昨日泊まったのは志高という別府からやや離れた国民宿舎。そこを出るとき、やや憂鬱な気分で別府についたら足がくたびれたというか、変な痛みを感じた。それで予定変更して宮崎までゆっくり車窓から海岸でも見ながら行こうと宮崎行に乗る。グリーン車にしたので2000円もとられた。しかも順法闘争でのんびりゆっくり電車は走る。志布志までいきたかったのに、宮崎で降りた。昨日の山の中ですごした所為だが、街中に泊まりたかった。山の人間が山の中に泊まると憂鬱になる。なぜか知らぬが落ち着かない。
 宮崎に着いたのは2時間遅れの5時。いくらでも遅れろ、オレはどこだってかまいやしない。宿も何も決まっていない。だが、宮崎駅を1歩出てガッカリした。嫌な雰囲気。宇都宮の方がまだ明るい。もっと早く着いていたら、どこか違う所へ行ったろう。とにかく、早く逃げ出したい気持ちになった。古い駅も暗い。その第一印象が悪かったのかも知れない。そこの人に明るさを感じない。学生たちがコーラを飲んだり、煎餅をかじりながら笑う。そんな明るさしかない。ここが、新婚旅行と、そして暴力団のメッカという事を思い出して、すぐにでも出たくなった。でも、時間がなかった。宮崎パークサイドホテル泊。
 国鉄がストのため全便運休。仕方なく、都城までバスを使う。その都城行きのバスを待つ間、同じくバスに乗る40くらいのおばさんとしばらく話をしていた。ところが、これに関する記載が日記にない。都城の喫茶店のおくさんというくらいまでは覚えている。都城のパウリスタという喫茶店が書いてあるが、ウエートレスのそっけなさがちょっと気になるけどいい店。けれど、店長不在の感じでちょいがさつとあり、たぶん、この店ではない。他にも鹿屋のロザンヌの記載があるけれど、その理由は思い出せない。バス〜バスで志布志に行き、国民宿舎ダグリ荘へ。
 国民宿舎ボルベリアダグリは昭和39年開業のダグリ荘の老朽化に伴い、平成11年建替とあり、同地にダグリ荘があったのは間違いないが、写真は現在のボルベリアダグリ。右奥に夏井駅が見える。
 夏井駅にきた。おばあさんとおばさんとちっちゃな子がいる。今までに、こんなに聞きづらい、聞き取れない日本語に出会ったのは初めて。英語と中国語を混ぜたような感じで、聞き取れたのは、畑、病院、パンツ、ズボン、バカ。すべて単語。特に、おばあさんのは流暢な中国語であるかのよう。「できとらんがね、まだ」が聞き取れた。「来たがね」が聞こえて、やっと日本語だったことが分かる。汽車が来た。乗ってしまうらしい。9時40分に志布志駅に着いて、行こうと思った鹿屋へは1時間の待ち合わせ。こんな接続も普通なのだろうか。ちなみに、それ以前の記載はなく、宮崎へは1時間半、都城へは2時間の待ち合わせ。
 この前年に志布志から霧島市国分駅まで全通し大隅線として運用するものの、志布志〜鹿屋が1時間に1本、鹿屋〜国分は3時間に1本程度。1987年に全線廃止となる。なので、鹿屋から桜島はバス利用となる。不便だから乗らない。乗らないから本数が減る。本数が減るからなお不便になる。・・・。左の夏井駅は現在のストリートビュー。昔は何もなかったような気がする。
 鹿屋で12時発のバスに乗る。ロザンヌの店を見つける。住所も電話番号もわかった。鹿屋〜桜島港を470円のところ国鉄なのでただ。鹿児島に着くと、木曜だというのに人が多い。やや圧倒された感じがする。さんざん歩いたあげく、予定のこむらさきは休み。キノクニヤという店の上のkinocという喫茶店でナポリタン。結構うまい。コーヒーをポットのまま持ってきて、氷の上にかけるという本格的アイスコーヒー。明日は屋久島へ行こう。今日、特別にいい所へ泊まろう。やはり、ホテルがいいということで東洋観光ホテル。
 鹿児島の夜へ出かける。まず、ママなんていう所に行ってCOFFEEを180円。そのマスターにJAZZ喫茶のありかを聞きALTECへ。やや本格派のJAZZ喫茶。持っているレコードを2枚かけられて出る。(アルフィー&トレイン&ハートマンA)。となりあったラーメン屋で味噌ラーメン。味噌つけラーメンてな感じ。ちょっと出てコロネットでコーヒー。ALTECは250円。コロネット180円。うーん、ジャズ喫茶全盛期の頃。
 右の写真は東洋観光ホテルの領収書にあった住所にあるビルディング。50年建替えてなければ、この建物だったかも知れない。駅から1km弱、フェリーや天文館通りからも500mほどの距離にある。
 屋久島丸はヤフオクに出ていたフェリーの3つ折り広告のもの。1970年就航で、2等運賃が3000円とあり、私が乗った時は1060円だから、10年ほど後のものと思われるが、折田汽船であり、屋久島への直行便なので、これに乗ったのは間違いない。現在でも折田汽船として屋久島2を運航しているが、倒産、身売りして名前だけ残しているので、沿革、歴史についてはほとんど記載がない。右は、そのフェリーから撮ったらしい桜島。私の九州旅行における最初の1枚。
 バス停前で、ときおり、私と太陽の間の雲がとぎれる。夏の射すような暑さがこみあげてくる。近くの店で水を飲ませてくれと言ったら、冷蔵庫から冷たい水を出してくれた。この町の人は、みな親切だ。
 平内温泉で湯に入る。手ぬぐい1本で海岸へ出る。湯に入り、そして海に入る。もぐる。カニを追う、小魚たちを追う。オレンジ色の岩が見えた。岩に寝そべる。そしてまた風呂に入る。そこに居合わせたおじいさんに連れられて、知り合いらしいおばあさんの所に行く。老人の家か親戚かと思ったのだが、そうではないらしい。昼飯食べてないから食べて行けよ、という感じだったが、その老婆も困ったような顔をしながら、即席ラーメンのようなものをいただいた。帰りになにがしかのお礼をと思いながらも、結局何も出せなかった。
 バス停にいたら、オレと同じくケムシのキライな子が、いじめっ子なのか仲間なのか、ケムシの好きな子に脅されて、ボクの所に走り寄った。ケムシが飛んできた。1mくらい離れた所へ落下。ボクもなだケムシはダメだ。「オレも大嫌いなんだよ」と言ってやった。道草を止めて帰りがけ、その子は仲間たちに、「あのおにいちゃんもキライなんだって」と言っていた。それから、手を振ってくれた。
 中学生か高校生か、通る人ごとに私の顔を見て「さようなら」と声をかける。いきなりの「さようなら」には、観光客に対し、お元気での意味なのだろうと思った。1人だけ「こんにちは」があり、大人の男はただ通り過ぎて行く。まあ、当たり前か。
 1971年開業の国民宿舎屋久島温泉が2005年に閉鎖解体されJRホテル屋久島となった。写真は屋久島の歴史より。右は平内海中温泉。
 今回の旅で初めて雨に降られてしまった。それにしても幸運と言えよう。ガジュマル園はまたあとで見よう。明日は我が家に帰っているのか。何やら妙な感慨を覚える。帰りたいような、帰りたくないような。
 山登りは苦手だし、釣りもさほど好きな方でもない。もう来ることはないのかも知れない、ここにいる。海に浮かんで、泳いで、もぐって、赤とオレンジのまだらの岩が目の前にパーッと広がって見えたとき、アー、なんて幸せなんだろう。そこの老人と老婆。もう、この島には用はない。あとはフェリーを待って、それに鹿児島でJAZZ喫茶に入るだけだ。いったい何を見たのかな。九州まできて。阿蘇も長崎も雲仙も霧島も見ていない。
 明治34年創業の田代旅館。昭和43年に建替え田代館となる。昭和61年に現在地に移転建替え、田代別館となる。田代館の場所、写真は不明。
 その田代館でも一緒だった2人の女性。普通の女の子の普通の2人旅と思っていたが、スタイルといい雰囲気といい、ちょっと違う感じ。そのうちの1人が、先輩らしい方を船室においたまま、新人なのか景色と見えるところまで上がってきて、しばらく話をした。同じ年くらいで桜島出身。資生堂のセールスレディだった。先輩を船室へ残しているので1時間ほどで船室に降りる時、ちょうど風が拭いて、ちょっと前に流行った「Oh!モウレツ」になり、にやにや見ていたら、「ヤダー」が可愛かった。写真なし、名前、住所聞いてない。
 鹿児島に着いてこむらさきでラーメン、その後、またALTECに行った。ホテルは前回と同じ東洋観光ホテル。
 初めて来たこの九州とも、もう12時間ほどでお別れだ。帰りたいような帰りたくないような。旅に出るとき、なんとも出たくないような気がしていた。そして、旅を終わるとき、終わらせたくないような気がしている。こんな一人旅を初めてやった。足の向くままに行き、止まりたいところで止まる、泊まる。気の向いた所で海岸に出てみる。蟹を追ってみる。何人かの人に声をかけてみた。それに話してみた。素敵なおばさん、おばあさん、女の子、男の子、可愛い女の人。気楽に話してくれた。みんな、旅は少し退屈なのかも知れない。いや、ときに、人と話をしてみたいのだろう。
 これを最後に空港、飛行機、羽田からの記載は一切なし。新しい資料が見つかれば、追加していく。
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